めかりる

カエル、変える、買える、帰る、考える

「四六時中」と「一部始終」其之一:四六時って何時?

「四六時中」と「一部始終」。

この 2 つの単語、語感が似てるなー、と。

1.どちらも数字を含む単語、2.どちらも計 7 字で 6 音節、3.「時中」と「始終」との音の近さ。あと、4.どちらもよく目にする口にする意味も分かる。のに、よくよく考えると、なんだかわからないところ。

そんな言葉に関するエントリー。のふりをした、インターネット上の語源と用例リソースへのリンク。

其之一では、「四六時中」をあつかう。長くなるので、「一部始終」は其之二にて。たぶん。

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四六時中

「四六時中」の意味と語源

コトバンク

まずは、オンラインの辞書サービスで、ちゃちゃっと。

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コトバンク には、オンライン辞書の双璧といってもよい デジタル大辞泉(小学館)大辞林(三省堂) とが、収録されている。

国語辞書のほかに有名なサービスでは、Yahoo!辞書 は「コトバンク」の DB なので、大辞泉と大辞林、goo辞書 は大辞泉、Weblio辞書 は大辞林が、それぞれベースになっている。

類語辞典や英語辞書などの付随するサービスで特色があるので、あとは好みだ。ここでは、大辞泉と大辞林とが一括で検索できるコトバンクを使う。

■ デジタル大辞泉の解説
しろくじ‐ちゅう【四六時中】
一日中。また、日夜。いつも。昔の「二六時(にろくじ)」を今の24時制に直していったもの。「四六時中仕事のことが頭を離れない」→二六時中
■ 大辞林 第三版の解説
しろくじちゅう【四六時中】
( 副 )
〔1日24時間を,昔の「二六時中」にならって今風に言い直したもの〕
一日中。いつも。

四六時中(シロクジチュウ)とは - コトバンク

意味は、「一日中」とか「いつも」とか。「四六時」で「一日」を意味するという。「四六時中も好きと言って」は、なかなかハードルが高い。

ではなく。「二六時中」ともある。初耳(お初にお目にかかります的な意味で)だ。「四六時中」が「一日中」なら、「二六時中」は「半日中」かというと、そうではないらしい。

■ デジタル大辞泉の解説
にろくじ‐ちゅう【二六時中】
《昔、1日が12刻であったところから》終日。一日中。また、いつも。「二六時中警戒にあたる」→四六時中
■ 大辞林 第三版の解説
にろくじちゅう【二六時中】
( 副 )
〔昔,一日を昼六時,夜六時に分けたことから〕
一日中。四六(しろく)時中。 「 -神経をとがらす」

二六時中(ニロクジチュウ)とは - コトバンク

「二六時中」でも「一日中」を意味するとのこと。「二六」、「二六時」では、ヒットしなかった。

Wiktionary

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もうひとつ、ピンとこないなと思ったら。Wikipedia さんの親戚、Wiktionary さんの出番だ。

■ 四六時中
副詞
四六時中(しろくじちゅう なお、啄木はしばしば「しょっちゅう」と訓じた)
1.一日中。
2.ずっと、いつでも、しょっちゅう。
できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍から離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。(太宰治 『人間失格』)
役所廻りをして、此間(こなひだ)やつた臨時種痘の成績調やら辞令やらを写して居ながらも、四六時中 ( しよつちう ) それが気になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。(石川啄木 『病院の窓』)
語源 / 元の表現である二六時中を、明治以降の二十四時間制にあわせて言い直したもの。
関連語 / 類義語: 明け暮れ, 朝晩, 朝夕, 何時も, 折に触れて, しょっちゅう, ずっと, 絶えず, 常々, 常に, 常日頃, 止めどもなく, のべつ, のべつ幕無し, 日頃, 引っ切り無し, 夜昼, 始終, 終始, 常時, 随時, 通常, 適時, 日夜, 二六時中, 年がら年中, 年中, 普段, 平常, 平生, 平素, 毎回, 毎度

四六時中 - ウィクショナリー日本語版

■ 二六時中
副詞
二六時中(にろくじちゅう)
1.一日中、ずっと、いつでも。
従っていかに吾輩の主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を弄するにも関らず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのははなはだ遺憾である(夏目漱石 『吾輩は猫である』)
裏手は古物商の裏庭で、ガラクタが積み重り、二六時中拡声器のラヂオが鳴りつゞけ、 夫婦喧嘩の声が絶えない。それでも北側の窓からは、青々と比叡の山々が見えるのだ。(坂口安吾 『古都』)
語源 / 江戸時代の十二支に基づく1日を12分割する時法において、昼の六時と夜の六時を合わせた言い回し。
類義語 / 四六時中

二六時中 - ウィクショナリー日本語版

ん。なかなか情報量が多くていいぞ。

「二六時中」は、「十二支に基づく1日を12分割する時法において、昼の六時と夜の六時を合わせた」表現とある。子丑寅卯辰巳……のあれですね。「二」と「六」の積で「十二」なわけだ。

この時法のことを十二時辰という。明治期に太陽暦が採用される前は、十二支をそれぞれ時刻にあてていた。夜の 0 時を「子」の正刻とし、前後二時間が「子の刻」。昼 12 時ちょうどは、「子」の反対側にあたる「午」の正刻。今でも、12 時を「正午」というのは、その名残。それでは、「月夜の晩のうしみつ時」はというと、牛の刻の三つ時の意味で、一刻(一時)を 30 分ずつ 4 つに分けた 3 番目の時間帯、つまり、午前 2 時から 2 時半あたりを指す。ホロレチュチュパレロ!

「明六つ」、「暮六つ」などは、また別の種類の時刻法。「時そば」に出てくるのはこっち。

十二支は方角にも用いられることがあって、北が子、東が卯、南が午、西が酉のようにそれぞれ対応している。「西」と「酉」が並んでいるが、両者に字源的な関連性はない。

また、北東を「艮(丑寅)」、南東を「巽(辰巳)」、南西を「坤(未申)」、北西を「乾(戌亥)」のようにもいう。艮の方角は鬼門とされ、鬼が入ってくるとされる。「うしおととら」はここからその名がとられたおはなし。京都御所の艮には、比叡山延暦寺がある。巽の方角には、辰巳大明神は南西にあり、近くの橋は巽橋として観光名所になっている。

閑話休題。

収録語数が少ない、また、ソースがわからないなどで使いづらいが、語源由来辞典 というものもある。

「四六時中」、「二六時中」の用例検索

青空文庫

意味が分かると実際の用例が気になるところ。その概念を指す言葉があったとして、使われた形跡がなければ、それはなかったに等しい。

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ご存知、青空文庫 は、著作権がきれた書物を公開しているサイトで、全文検索もできる。すばらしい。

「四六時中」で検索してみると、やまほど用例が出る。

では、「二六時中」はといえば、こちらもすくなくない。

さて、検索結果からお気づきの方もおられるや、青空文庫には、近代以降の作品が多い。明治以降、「四六時中」と「二六時中」とが共存していたことがわかる。が、近世以前の用例をも知りたいはべりいまそかり。

噺本大系本文データベース

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カレントアウェアネス・ポータル | 国立国会図書館 が公開している 噺本大系本文データベース を使う。噺本とは、江戸期の文芸の一種。落語家のネタを「噺」というが、噺本とは笑い話を集めた本のこと。この類の本は、その多くが庶民によって書かれているため、実情に近い風俗のうえに成り立っているので、用例を調べるようなときには、とても有用。そして、簡単に使えて便利。

元は、大系本文(日本古典文学)データベース だったけれども、今年のはじめにお亡くなりになり、噺本の部分のみが独立している。残念。

さっそく、「二六時中」で検索。いくつかヒットした。

十四 楊貴妃があらハれた
さる所の中ゐの女、美人ハ柚の香ひがするときゝはつり、二六時中たもとにゆをたやさずいれて持いたり。...

6巻 露新軽口はなし
  • 訳 あるところの仲居の女は、美人は柚子の香りがすると聞いて気にかけており、「二六時中」そでの中に柚子を入れて持ち歩いていた。

この話のオチは、ある拍子に仲居が柚子を落とし、それを見た周りにいた人間が柚子を指して「楊貴妃が現れた」と言ったというところ。だけれども、このエントリーには影響しない。

『露新軽口はなし』は、江戸時代京都の落語家、初代露の五郎兵衛が 1698 年(元禄 11 年)に著したとされる笑話集。たしかに、「いつも」という意味で「二六時中」が使われているので、すくなくとも、江戸の前期には、この用法が成立していることが分かる。

当然、近世の書物に「四六時中」は出てこない。逆に十二時辰自体は、中国の西周の時代にはあったとされるから、「二六時中」はもっと遡れるかもしれない。結論として、これより古い「二六時中」は見つけられなかった。

「四六」や「二六」のように、掛け算を使って数字を表すことはよくあったようで、ほかにも、16 を表すのに「二八」を用いる、「四十九日」を「七七日(なななぬか)」とするなど。「二八」、「二九」は、とくに女性を指すときに使われ、例も多い。

一例。

第二 たきゞの寺にて金のばけたる事

...すでに子のこくばかりとおぼしきとき、寺内しんどうして、いなびかりすさまじきなかより、としのほと二八ばかりなる女の、いかにもやうがんびれいなるが、こつぜんとあらハれて、一休の御そばちかふあゆミよる時、一休すこしもさハぎたまハず。...

3巻 一休関東咄
  • 訳 すっかり「子の刻」ぐらいと思われたころ、寺の内部が振動して、激しく稲光がなる中、「二八」ぐらいの年頃で、非常に容顔美麗な女が、いきなり現れて、一休のお側近くに歩み寄るとき、一休はまったく動揺なされなかった。

「子の刻」が、23 時から 1 時あたりであることはこれまでのとおり。「二八」は 16。一休さんのはなしには、このように 16 歳くらいの女の子が出てくる話がまだある。が、このエントリーでは妬んだりしなうらやましい。

足し算、引き算なら、「白寿のお祝い」をはじめとして枚挙にいとまがないが、掛け算を使う言葉遊びも、古く万葉集仮名のころから見られる。

借訓の項から。「二二」と書いて「し」と読む。「十六」で「しし」、「八十一」で「くく」、「三五月」で「もちづき」。万葉仮名はあくまで仮名文字、原則は一字一音なのだけれど、そうではないものもあるよ、ということでも有名な例。

似たような掛け算の言葉がまだあるかしら、と思ったら、どんな分野にもあらまほしき先達はいるもので。

付け加えて、「二八夜」は「十六夜」のこと。

言葉の源流をなぞるということ

「四六時」ばかりで、「中」をおろそかにしてしまったなー。まぁいいか。

今回の結果として、「四六時中」は明治期以降、「二六時中」は近世以降。ただし、掛け算で数を表すことは上代から行われているので、遡るかもしれない、といったところかな。

言葉は、時代によって変わる。新しい概念を表す言葉は、その概念に触れた際に生まれる。いつの時代に生まれた言葉なのか、また、その言葉の用例の変遷、用例の変遷の裏にある概念の変化。このあたりが踏まえられた言葉談義は、まっこと、おもしろい。

全体をとおして参考にしたのは、こちらのページ。

一部で全部? 「一部始終」

以下、自戒。じゃなくて、次回。ソースを変えて「一部始終」をたどる予定。